Essay [Concepts under construction]

【連載エッセイ】

概念工事中

長野智夫


【2000.12】
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■2001/1/3 【一年の計】
年始一発目なので、少し初心表明でもしておこう。
(これは、自分に言い聞かせるためです)
そもそも僕はなぜ、今ごろになって1年以上も放置していたホームページの更新をしているのか。
僕のやりたいのは、ステキな現実を作ること。
でも僕はゲバラとかではないので、革命は不可能だと思うし、その必要もないと思う。
社会システムは、まあ概ねこのままでいいのではないか。
必要なのは、現実を生きるためのパワーの源泉となる偽現実ではないか。
それを最も効果的に具現化するためには、世の中の商業的な仕組みを利用した方が都合が良い。

原宿にある、個人向けの貸しギャラリーの前に置いてある自動販売機(派手な彩色が施されている)に確かこんなことが書いてあった。
“このクソつまらない世の中を、オレが面白くしてやる”
しかし、個人でこれ(自動販売機をハデハデにペインティングする)以上のことをやる方法というのは、僕は想像がつかなかった。少なくとも、僕にはできないような気がした。
今の時代、なにかを世の中に浸透させていくには、商業的な仕組みを使うのが一番だ。または、ボランティアだろうか。アートみたいな、隔離された概念には力がないと思う。個人的には好きなのだが。
商業的な仕組みを使えば、自分達が作ったものを何十万(目標は何百万)と複製して、全国に流通させることができ、マスコミによってその情報を全国に流布させることができる。
逆に言うと、巨大システムの歯車になるのだが、別にそれでいいのではないか。
何の問題もないと思う。
現代思想で指摘されている、高度資本主義社会における人間疎外の問題ということには、まったく共感が湧かない。

だから、個人の活動などをチマチマやっているよりも、その分仕事をした方が良いだろうと考えていた。
それは今でも、そう思っている。
しかし、その仕事で一人前と言える人材になるには、人の企画をあずかって、それを良い形で具現化するということができるだけでは(それもできているか怪しいが)、不充分であると考えるようになった。
やはりヒットする企画の提案ができなければならない。
そのためには、モノ作りの感覚を、普段からもっと研ぎ澄ませておく必要がある(その時になってブレストでは、案外出ないことがわかった)。
それには、自分の手の中で、モノ作りがある程度できた方がいいのではないか。
そういうシンプルな、モノ作りの感覚を取り戻したい。
だから今年は、プログラム的なことも勉強したりして、できるだけモノを作っていきたいと思う。
イベント的なこともやりたい。イベントではないイベントをやりたい。10000ヒット記念プレゼントの受け渡しもその一つなので、みなさんよろしく。

そもそも、今の時代は、いろいろなことがやりやすくなっていると思う。
ハイレッドセンターの作品の一つに『通信衛星は何者に使われているか』という作品があった。
通信衛星の放送実験が行なわれるたびに要人が殺される事件が起こったことから、次の放送実験のときに起こる事件を勝手に想像し、それを知らせる新聞風印刷物を作って、知らない人に郵送しまくったという作品だ。
この印刷物を作るには、ケント紙でレイアウトを作ってから、印刷所に版下を作ってもらい、それから印刷ということをしなければならなかった。しかし今では、パソコンとプリンタがあれば、自宅で同じことができる(その分、活字の印刷物の重みは薄れてしまっているが)。
15年ほど前に、秋葉原でFM放送の送信機のキットを買ってきて放送をしてみたことがあったが(無論、たぶん誰も聞いていない)、こんなことは今ならインターネットでもっと面白いことができるだろう。携帯電話には標準でネット接続の機能がつくようになった。
ネットでオーダーメイドの注文をしてオリジナルグッズを作ることも簡単にできる。
道具立てはそろっている。あとは、考えて実行するだけだ。

つまり気力の問題か。

■2001/1/5 【プロゲーマー】
『日経netBRAIN』という雑誌で知ったのだが、韓国には年収1000万円相当を稼ぎ出すプロゲーマーがいるらしい。
僕はコンピューターゲームというのは、ライフサイクルが短すぎてプロ競技にはならないと思っていたのだが…。
サッカーのゲームで対決するらしいのだが、その対決シーンがかつての“高橋名人vs毛利名人”の映画のセットに似ていて、かなりヘボカッコよかった。

■2001/1/7 【ステキな現実ってなに?】
自分で書いておきながら何だけど、ステキな現実というのは、ないと思う。
だからここで言ったのは、ステキじゃない現実を、なんとかステキっぽく思いこめるような何かを作りたいということだ。
でも、ホントは現実がステキだったらよかったのに…と思う。

■2001/1/9 【リアルICQ】
今年は物作り年間ということで、iモードJAVAの資料を集めたりしている。
いつもそうだが、最近の開発って、実際に物を作るところに到達するまでに、その環境の ことをいろいろ勉強しなきゃならないので、すごく大変。挫折しそうな気が…。
しかし、わかったこともある。僕はiモードにJAVAが搭載されたって、大して使い道ないんじゃないかと思っていたが、実は結構いろいろ使えそうだということが少しわかった。
簡単な例でいうと、リアルICQみたいなことができるんじゃないだろうか。待ち受け画面に、登録した人の現在の状況が常時表示されるみたいな。たぶん、これは誰かが作るだろう。

■2001/1/11 【指名手配】
iモードJAVAでできることが結構ありそうだとは思ったが、でもやはり大規模なRPGやアクションゲームなどには向いていないように思える。
理由は、まず入力デバイスが貧弱であること。ゲームの命は操作性だが、携帯電話用の操作パッドはゲームの操作に使うには、押した感覚だけでどっちに押したか分からない点やトリガーを押すのにも同じ親指を使わなければならない点など、難点が多い。
もう一つの理由は、ニーズの問題だ。わざわざ携帯電話で、そんなに長時間かかるようなゲームをやりたいと思う人がいるのだろうか。そういう重厚長大なゲームなら、ふつう携帯ゲーム機でやるのではないか。
よれよりも携帯なんだから、もっと手軽でバカなものがいいと思う。
最近面白いと思ったのは、警視庁の指名手配犯顔写真配信サービスだ。
雑誌に載っていた、携帯電話の待ち受け画面にオウム逃亡犯の平田信容疑者の顔写真がはめ込み合成されているビジュアルには感動した。

■2001/1/12 【そんなあやふやなもの】
なんだか時代が変わってきているように思う。
そのひとつに、“夢”とか“やりたいこと”という言葉を、僕の子供の頃より多く聞くようになったということがある。
キミのやりたいことは何? 夢を持とう 夢に向かってがんばれ
夢とかやりたいことを持つことが、むちゃくちゃ奨励されている。
僕が子供の頃は、そういう言い方もあったけれど、基本的にはいい大学を出ていい会社に入って安定した人生を送るのが良いみたいなニュアンスの方が強かったように思う。
夢なんて、そんなあやふやなもの…みたいな感じだった。

■2001/1/13 【エール】
ポケットモンスターのアニメも、最初に見たときに、アレ? と思った。
これは、僕の子供の頃には、存在しなかったパターンではないか?と。
主人公が「ポケモンマスターになってやるぜ!」という自分の夢を吹聴して回るのだが、それ対して、親をはじめとした周囲のすべての大人が、賛同してエールを送っているのである。
こういう描き方は、昔はなかったように思う。
昔なら、さほど勉強ができるわけではない主人公が、親や学校の先生などから「勉強しなさい」とうるさく言われる中、それでも自分のやりたいことをやり通すみたいな話になったのではないか。
こういうものに人気が集まるというのは、やはり、時代が変わってきているんだなあと思う。

■2001/1/15 【今ごろになって】
他者からの全人格的肯定がないことを前提とした生き方。
というものを考えることになり、考えてみた。
自分ができることのみで、自分にポジティブなイメージを保つ方法。
自分ができることのみで、日々が満たされたものであるようにする方法。

なにが一番大切か。
なにを幸いとするか。
何をしているときが一番楽しいか。
どういうことをやっている人がカッコ良くて、どういうことをやっている人がカッコ悪いのか。
何が好きで、何が好きではないか。
どんな人とどんなことを話したいか。
歳をとったらどうなっていたいか。
どう死にたいか(あるいは、こう死ぬのは仕方ないと思える死に方はどんな死に方か)。
そんなことたちについて、ぜんぶ自分で基準を作って自分で評価して、動く。
で、結局さびしいけど、それはそれとする。

ということなんだろうなあと考えた。
今回は、個人主義がどうとかという理屈から入っていないので、実感度が高い。
それで2つくらい気づいた。

80年代にいろんな人が言っていたことって、もしかして、このこと?
好きなことをやれって、このことですか?
ということに気づいた。実感した。
30間近になってやっと。
今ごろになって。

■2001/1/17 【気づいてみると】
気づいてみると、実は気づいてなかったの僕だけじゃないのか? というくらい、いろんな人がそれを前提にして生きていることがわかってくる。
だいたい僕はこういうことについて、ほかの人より10歳分くらい精神年齢が遅れているような気がする。
昔読んだ鴻上尚史の本とか、橋本治の本とか、村上龍の本とかで前提になっていた基本的考え方というのも、このことだったのだろう。
つい先ごろ完結したこのページの特集「異界」の冒頭で紹介した歌『情熱の薔薇』の、次のループの歌詞が

 なるべく小さなしあわせと
 なるべく小さなふしあわせ
 なるべくいっぱい集めよう
 そんな気持ちわかるでしょ

なのだが、これもそういう生き方のことを示唆しているのだろう。

■2001/1/18 【広がっている】
で、こういう考え方をする人が、どんどん世に広がっているというのが、時代が変わってきているというふうに思う根本にあるんじゃないかと気づいた。
ひとことで言うと、「満たされた日々をおくるために、模範的な社会的上昇という方向に行かずに、みんながみんな、楽しいことを探している世の中」という感じだろうか。

■2001/1/25 【最近面白い場所】
ほぼ日刊イトイ新聞の「帰ってきた松本人志まじ頭」と「荒俣宏インターネット荒野への旅」が面白い。
この辺を読んでいると、新しい時代の経済のかたちというものが、つかめたような気がしてしまう。
雑誌のおもしろさってこういう、まだ存在しないものが、あたかも目の前にあるような気にさせるというところにあると思う。
でも昨日の分の連載(最終回)を読んで思ったのだが、どうも僕は、こういう高度に抽象的な話には感染はするんだけど理解ができないので困る。

■2001/1/31 【ゲームの教養】
しかし少し更新が滞ると、とたんにアクセス数が半減するので油断ならないものだと思う。
自分で言っておいてなんだが、12月の発言(構成主義とか)は創造的な仕事に必勝法を見つけようとしていたような気がして、ちょっと反省していた。ゼロから考えるのがしんどいので、一部でもシステム化できないか・楽ができないかと考えていたような気がしたのだ。
しかし、やっぱり、あった方がいいかなと思うようになった。
やっぱりあると便利だと思う。ゲームの教養。今実感している。
というのも、ゲームの基本形というのは、実はそんなに数が多くないんじゃないかという気がしてきたから。
基本形は同じで、それをどういうモチーフにどうマッピングするかだけなんじゃないか。


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