Essay [Concepts under construction]

【連載エッセイ】

概念工事中

長野智夫


【2000.12】
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■2000/12/4
僕はこの学会の正会員なのだが、この会報はもう半年くらい一向にアクセスが増えていないという話を聞いていた。それもそうだろう、だってぜんぜん更新されていないんだし。と考えていたが、一抹の寂しさを感じたのも事実であった。
しかし先日、編集部員から「なんか、アクセスカウンタのCGIのドメイン名がorのままだったんですよ。内部からは正常に表示されるので、ぜんぜん気がつきませんでした。てへ♪」という連絡を受けた。
あまりのバカさ加減に情けなくなりつつも、アクセスカウンタ復活記念と称して新連載を始めたいという話に乗ることにした。仕事もひと段落ついたところだし、今までためていた考えをまとめる良い機会であると考えたからだ。
基本テーマは、『これからのゲームづくり』だが、その時々に思いついたことや、ゲームとは関係ない話も適当に入れていくつもりである。
タイトルになっている“概念工事”という言葉は、編集工学研究所所長の松岡正剛氏の著作名から勝手にもらったものだ。なんか僕も、この会報で展開されているような概念を、もう一度工事して作り直したいような気がしたからである。
正直どうなるか分からないが、あてどなく始めてみようと思う。
そういえばゲーム業界も、ゲームが売れていないしPS2は不調だし発売されるのが1500円のソフトばっかりになってるし、どうなるかわからないが。

■2000/12/5
先日も書いたとおり、この連載を始めた理由は自分の考えをまとめるためという部分が大きいため、文章的にはあまり面白くならないと思うが、そういうものだから仕方ないと思って欲しい。あと、特にまとまりなくいろんな話に飛ぶ。それらはあとでまとめるつもりだ。

さて、今ゲーム関連で考えていることを挙げてみると…
1.思考の統一的枠組みに関する考察
2.生態学的ゲームデザイン論
3.粘着性システム理論
4.ゲーム構成主義
という感じだろうか。

まず1について、ちょっと。
数ヶ月前、『武蔵野美術』という雑誌に、アフォーダンスの特集が組まれていた。
大学のときに少しかじったことがある言葉だったので読んでみたら、けっこう新発見。
ああ!アフォーダンスってこんなに意味が広いものだったんだ。という感じであった。
ドナルド・ノーマンの本を1冊読んだだけだったから、この概念はもっとデザイン上の問題発見のための一観相術みたいなものだと思っていた。
でも実は、“環境と、それを認識し行動する者が、ひとつのシステムになっている”という世界観だったんだと分かった。
ちょうど手元に、昔買っておいて途中までしか読んでいなかった『アフォーダンス〜新しい認知の理論〜』があったのでこれも読んでみた。
う〜ん…これは、面白いかも。しかし、よくはわからなかった。情けないが、まあ仕方なかろう。
その『武蔵野美術』にはその他にも、グレゴリー・ベイトソンが実はアフォーダンス理論に関して「これオレと同じ事言ってるんじゃないの」みたいなことを言っていたという話も掲載されていた。
グレゴリー・ベイトソンは情報科学の開拓者の一人で、精神病理学の分野で「ダブルバインド理論」なんかを提唱した人だ。
カッコよさそうな人なので僕は学生のころから注目していたのだが、本は途中で飽きて最後まで読んでいなかった(何やってんだよ>俺)。
アフォーダンスって、システム理論、構造主義などと、実は結構つながっていくんじゃないかという気がした。
何か本を読むときでも、とっかかりとなる考え方がないと、なかなか咀嚼しづらいということがある。
アフォーダンスの概念をある程度マスターすれば、そこから色々な話にリンクをたどって行ったり、自分なりのカッコ良い理論を構築したりするのに役立つのではないかということを考えた。これが1。

■2000/12/6
では2について少々。
“生態学的〜”というのは、前述のアフォーダンス理論を提唱したジェイムズ・ギブソンの生態学的認識論から取った名前だ。
まず少し前置きをする。
以前から、ゲームの意味とは何かということを考えていたのだが、最近その疑問が解けた。というか、問題を整理できた。
ゲームにおける意味。
それは、ゲームの内部的なシステムの形態から生じるものではなく、なおかつ、ゲームの題材と現実世界との照合関係によって生じるものでもないのではないか。
それは『そのプレイヤーの生活の中で、そのゲームがどういう機能を持つか』という、単にそれだけのことではないか。ということに気付いた。
だから、“このゲームには意味がない”とか、“ゲームに意味がないのは問題だ”という問題の立て方は、そもそも間違っていたのだ。
で、おそらく、この会報の展望論文を書いた人間の、そもそもの疑問というのは、実は“ある種のゲームが持つ、強力な求心力はどうしたら生み出せるのか”という疑問だったのではないか。
そんな気がしてきたのだった。

■2000/12/7
『そのプレイヤーの生活の中で、そのゲームがどういう機能を持つか』
その人の生活の中にによく溶け込んで、なおかつ、何かしらの楽しさを提供してくれるようなものを作るということ。
ここに、“その人の生活や環境と一体化したシステムとしてのゲーム”という概念が出現する。
この視点で新しいゲームを考え出す方法が、生態学的ゲームデザイン論だ。
…でもよく考えると、生態学とぜんぜん関係ないな。
生態学というより、単なるライフスタイルのことのような気がしてきた。

■2000/12/8
しかし、照準がそう変化すると、ゲームというのは、実は映画や文学よりも工業製品に近いもののように思えてきた。
そういえば、宮本茂氏(スーパーマリオを作った人)はもともと工業デザイナーだったよな…という連想も浮かぶ。
というか、この視点って実は工業デザインそのものじゃないだろうか…(マーケティングの視点にも似ているが)。
そう思い、歴史ある工業デザインという分野には、そういう、人の生活を分析してうまく分け入っていくための方法論がすでにあるのではないかと考えた。
で、いろいろ本を探してみたが、見つからない。そもそも、グラフィックデザイン関連の本に比べて、工業デザインの本はぜんぜん数が少ないということが分かった。
逆に、「工業デザインの方法論というのは、生活の中での用途がハッキリしているものに一番効力を発揮する」みたいな記述は見つけたので、そういう便利な方法はないのかも知れない。
工業製品にも、いろいろな設定や物語があると思う。
設定といっても、もちろん機械の設定のことではない。
商品を企画するとき、仕様を策定するとき、構造を設計するとき、想定されていることがある。
その製品が、どういう人に、どういうところで、どういう風に使ってもらいたいかということだ。
つまり、一つの製品には、あるライフスタイルを推奨するというメッセージが含まれていると思う。
そういう製品を企画するときって、やはり、みんな地道に手探りで考えているのだろうか。

■2000/12/9
では次、3。
ゲームのシステムというのは、できるだけ少ない要素で、できるだけたくさんの選択肢が生じるものが理想的である。
そこで、システムの各要素間の相互関連性に着目し、これをどのように増やして行ったら最も効果があるかを考える方法論があると便利なのではないかと考えた。
また、そこまで行かなくても、ゲーム中で孤立した要素の存在を自分で気付けるようにするための自戒の用語があるだけでも結構ちがうだろうと考えた。
(というか、ゲームを作っていて、ある程度できたところで人に見てもらったときに、「このメッセージとこのデモの内容って関連してないの? この選択肢はこのメッセージと関連してると思った」みたいな極めて鋭い指摘を受け、自戒の言葉になる概念の必要性を痛感したというのが実情なのだが)
それが“粘着性システム”である。
粘着性というのは、「要素間が何重にもくっついている→なんかネバネバした感じ」という連想から来た言葉だ。
粘着性が高いシステムは、有機的・生き生きした感じ・あたたかい感じ・統一感がある感じ・噛めば噛むほど味が出る感じ、という印象をユーザーに与える。
一方、粘着性が低いシステムは、ハリボテっぽい・クールとは違う冷たい感じ・統一感がない・世界としてのまとまりがない・アイデアが消化しきれていない、といった印象をユーザーに与えてしまう。
実際、個々の作品によっても違うが、任天堂のゲームは粘着性が高く、スクウェアのゲームは粘着性が比較的低いように思う。といっても、これは比較的という話であって、もっと最悪に低いものは数限りなくある。というか、任天堂のものが突出しているのかも知れないが。

■2000/12/10
では最後、4。
ゲーム構成主義というのは、デザインの構成主義から取ったものだ。
デザインにおける構成主義とは、デザインを、最小の要素(点や線や円、空白など)に分けて、それらの組み合わせだけで作品を作る手法のことである。
ってあまり自信はないが、たぶんそうだと思う。
それがまた、シンプルですごくカッコイイのだ。
ロシア構成主義の作品などは、今見ても逆に新鮮である。
そこでゲームでも、同じことができるのではないかと考えた。

■2000/12/13
よく考えてみると、テトリスやルービックキューブなどはまさにそういうゲームだった。
しかし、ここで僕が考えたのはそういうゲームを作るということではない。
そういうゲームを作るというのとは別に、ゲームを構成する最小要素を抽出・体系化し、あとでそれを利用できるような仕組みを考えておくのは有益なのではないかと思ったのだ。
これをゲーム構成主義と勝手に呼んでいる。

■2000/12/14
ゲームは、マシンの高機能化により、製造コストがどんどん上がっている。
しかし、ソフトの販売数は、数年前に比べて確実に減ってきている。
この状況を考えると、ゲームマシン用のパッケージのゲームとして生き残れるゲームは、やはり少なくなっていくであろうと思われる。
会社もたくさんつぶれるだろう。
このとき、ゲーム業界はどこに向かっていくのであろうか。
一つの方向として、携帯電話やデータ放送のコンテンツ作成が挙げられる。
しかし、これは開発費が安く、使いつぶしのものを作らなければならないので、かなりツライことになると思われる。
よほど、効率的に開発を進めなければ、採算が取れない。
ブログラムも、再利用可能なパーツで構築して、それを組替えることで多様なものを作っていくようなやり方をする必要があるだろう。
このような場面で、効果的なコンテンツ製作ノウハウとして、ゲームを構成する最小要素を体系化した知識が役に立つのではないかと考えた。

■2000/12/15
もう一つの方向として、ゲームのエッセンスがゲームでないものに受け継がれ、ゲームのようなものとして作られるようになるということが挙げられる。
メーラー・ブラウザ・WEBサイト・カーナビ・携帯電話・PDA・自販機・コンビニ情報端末・博物館や美術館などの展示システム・各種イベント・各種販促キャンペーンなどがその対象となるだろう。
このとき、ゲームのどのエッセンスがもっともその製品・商品・サービスに合っているか、どんな適用の仕方をしたら面白くなるか、プロジェクト規模によってどのくらいの要素を盛り込めるかをすばやく判断できるような知識体系があれば便利ではないかと考えた。
実際、コンテンツ製作の場合と違って、こちらの方向はゲーム製作会社が実際にその業務を担当することはあまりないだろうと思われる。
仕事を遂行するのに必要なノウハウが違うし、おそらく小規模なゲーム要素の盛り込みになるので、それほどゲームシステム作りに熟達していなくとも、いつもの業務+α的な知識と労力で実現が可能だからである。
なので、そういう仕事に携わる人達向けに、いつもの自分達の仕事にプラスαをするためのヒントとなるような、ゲーム性の体系的知識を解説した本があると便利だろう。 場合によっては一般向け講座とか、もっと言うと、将来そういう方面に進む学生のために、大学に講座があってもいいかも知れないと思う。

■2000/12/19
12/6の“ある種のゲームが持つ、強力な求心力はどうしたら生み出せるのか”という問題だが、これに関しては、“究極的には偶然”としか言いようがないのではないかと思う。
ただ、条件の無いところにそういう力の場が発生しないのも事実で、そのために僕らにできることは条件を見つけてそれを整えることだ。
丁寧に作られていることは当然として、その他に新規性・内部と外部(市場)との完全な一貫性が必要になると考えられる。まあ、この辺はふつうのマーケティングと同じことかも知れないが。
しかし、選ぶテーマによって求心力に差が出るというわけではないということが分かっただけでも、企画立案がやりやすくなったと思う。
ランダムに知識を組み合わせて出したアイデアでも、条件に合ってさえいればゲームの神様が降りてくる可能性があるから。これが分からなかったときは、理念→具体化案という手順を踏むことになり、これは当たり前だがすぐに行き詰まるのだった。

■2000/12/20
セガが回転寿司のオーダーシステムを開発した。
カウンターの前にモニターがあって、CGの魚が泳いでいるという。
食べたい魚を押すと、その寿司を注文することができ、あとは待っていれば流れてくるのだという。
待っている間には、その魚の生態の説明を読んだりすることもできるのだそうだ。
これぞまさに、“ゲームのエッセンスがゲームでないものに受け継がれ、ゲームのようなものとして作られるようになる”ということだ。というか、あと一歩だと思う。
セガはこの他にも、モトローラの携帯電話に初期状態で搭載されるゲームを開発したりというように、積極的にコッチの方向に進もうとしている。
非常に楽しみである。

■2000/12/21
アフォーダンスの本を読む前に、現代思想の本を読み返したりしている。
大学の時に買って、一度読んだのだが、その当時はかなりチンプンカンプンだった。
しかし、今読んでみると、すごくわかってしまうので非常に不思議な感じだ。
そのとき以来、現代思想の本なんて、読んでなかったにもかかわらずである。
だが、ある程度わかってみると、わりとしょうもない話であることが判明したりして、これまた新発見であった。

■2000/12/24
マンガ喫茶の机に、コンセントがついていることに気付いて以来、ノートパソコンが少し欲しくなった。
前から雑誌などで目を付けていた、ソニーのVAIOGT(ビデオカメラがついているタイプ)が発売されたということもある。
しかし、惜しい。
なんであの大きさなんだろう。キーボードが小さすぎて、パソコンとして使えない。
試しに店でキーを2分くらい打ってたら、腕が疲れて痛くなってきた。
もっとデカければ買ってたのに。
かといって他のタイプは、物としての存在感ぜんぜんなくて、欲しいと思わないんだよな。

■2000/12/26
くだらない物欲話をもう少し続けると、最近、めったに刺激されない物欲を刺激された製品がもう2つある。
ひとつは、最新型ザウルス。どこが気に入ったかというと、あのキーボードである。
あれを初めて見たとき、映画『裸のランチ』に出てきた虫の頭についていたタイプライターのキーボードを思い出した。
あの緻密さは尋常ではない。カバーをスライドさせると出てくるところが、緻密さに拍車をかけていてまた良い。
もうひとつは、ソニーのメモリースティックウォークマン付き携帯電話。
これは何で気になっているかよく分からないが、たぶんあの色や分厚いところや電話にイヤホンを差すというところのような気がする。
だが、ザウルスも携帯電話も、僕は持っていても絶対に使いそうにない。すごく残念。

■2000/12/27
ソニーのゲームはCMのセンスが良いことで有名であったが、PS2のゲームになってから、そうでもなくなったように思う。
なんというか、完全にゲームとCMが乖離してしまっている。というより、ゲームがCMに負けているのかも知れない。
もともと、ゲームは架空の世界を舞台にしたものが多い。
それをうまく日常の世界と結びつけるようなCMの作り方をしていたのがソニーだ。
しかし、なんかもう、そういうまわりくどいやり方では、ユーザーをひきつけることができないのではないか。
最近発売された『ダーククラウド』を例に取ろう。
CMで流れる“だれにでも、取り戻したい故郷がある”というフレーズには共感できる人は多いだろう。
しかし、だからといって、あのゲーム画面を見て、やりたいと思う人はどれだけいるだろうか?
“取り戻したい故郷がある”というのと、ゲームの中で町を作っていくことには、共通点がない。
もちろん、まずゲームがあって、どうにかCMを作らなければならなくてコピーを考え出すのだから、乖離するのはしかたないのだが、CMの方が人をひきつける力が強いというところが皮肉である。
ゲームを作る方は、もっとそういう、日常にいる人々に手を出させるような引きのあるモチーフを選ばなければならないのではないか。

■2000/12/28
と、言うのは簡単なんだけど、実際にそれをねらうのはすごく難しい。
今、企画をクライアントに提案していても、“その製品の、世の中に対する説得力”みたいなものを、ものすごく問われるようになっている。
説得力と言ったのは、単に訴求力という以上に、あらゆる意味での一貫性が求められているから。
“少し変わった良い感じのシステムのゲーム”というだけでは、まったく相手にされない。
って、わかってんならそんなの提案するなよと言われるかもしれないが、それなりに整合性が取れていて少し新しめのものを考えついてしまうと、うれしくなってしまうのだ。それくらいのものを企画するのだって、そんなに簡単ではないから。
事実、そのくらいのものでも、実際に作られて市場に出ているものはいくらでもある。で、失敗している。
だから半分、この文章も、自分に言い聞かせるために書いているという意味もある。
しかし、一弱小開発会社の身分で、クライアントとこういう話を詰めていけるというのは、実はすごく恵まれているのかも知れないとも思う。

■2000/12/29
聞くところによると、クライアントの社内でも、新規の企画は非常に通りにくくなっている状態だという。
従来、部長レベルである程度ゴーサインを出せていたものが、今はもっと上層のレベルで、社内の他のソフトとも照らし合わせた厳しい審査が行なわれるという。
本当に今までにないものなのか、お客は誰なのか、そのお客の数は十分に多いのか、お客はなぜそれを手に取るのか、買ったお客は何を目的にゲームを進めていくのか、どう進めさせるのか、進めていくとその先に何があるのか、なぜそのハードで出すのか、なぜ(あのキャラではなく)オリジナルのキャラを使うのか、通信などの各種対応はどうなっているのか、どう売るのか(どうヒットさせるのか)、その見積もりのコストで本当に作れるのか、その理由は…など、ソフトを作る前に、そのソフトの市場での存在理由と実現性をチェックされる。
表面の部分だけでなく、内容にもかなりつっこんで見られるので、市場での存在理由からゲームの内部までを貫く論理が完璧でないと、通らない。ようだ。まだ通っていないのでわからないが。
市場の論理を内部化して、あらかじめ“存在できないもの”を作らないようにしているのだろう。


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