Games are evaporating.

【エッセイ】

蒸発するゲーム

2000 渡辺浩崇


T.人間の行動と自己肯定の快

人間が生産活動以外に行う行動は全て快感原則に基づいている。
自分に快をもたらすもの、それは単に気持ちの良いことだったり、楽をして利益を得られそうに思えるものだったり、日常の中では味わえない眩惑を安全に得られるものだったり、自分の立場を肯定したり激励したりしてくれるものだったりする。
通常、生産活動以外での行動で、快感原則に沿ったものというと娯楽だと捉えられがちだが、それだけではなく、宗教もボランティアも競技スポーツもこの範疇に入る行動だと言える。しかしここではとりあえず、娯楽の範疇のことについての話に留める。

食欲・性欲といった直接的快楽とギャンブル以外の娯楽には、必ず、自己肯定の快の要素が存在する。そして、何を快とするかは個人の性質によってかなり異なる。そのために、各個人が好む娯楽のジャンルには偏りが生じてくる。
例えば、恋愛経験のない者あるいはそれに縁遠いと自覚する者は、メディアは問わずリアルにみえる恋愛ドラマは見ないであろう。そこで繰り広げられる複雑な人間関係や心の動きは理解しがたいものであろうし、また自分がそういうものから疎外されていることを自覚させられることも不快に感じるであろう。
しかし、今の世の中にはありとあらゆる人間に向けて作られた様々な幻想や物語が数多く用意されている。例えばモテない人向けには、恋愛の話題をまったく扱わずに「世界全体・人類全体の運命」に言及することで、あたかも自分がより大きな視座に立っているような気にさせてくれる、つまりはモテない自分を肯定するためのツールとなるような幻想なども市販されている。

U.自己肯定の快とゲーム

このことをゲームについて考えてみると、ゲームには一切自己肯定の快というものがないことがわかる。一切、プレイヤー自身について、何の肯定もなされない。
ゲームという、閉じたルールの中でのやりとりを好んで楽しむ人間は本来少数である。将棋が趣味とか囲碁が趣味という人でも、コミュニケーションの道具や場としての意味合いが大きく、別に純粋にゲームが好きだというのではない。現在、チェスはコンピューターの方が人間より強くなってしまったが、人間と対戦するための訓練という意味合いではなく、純粋にコンピューターとばかりゲームをやる者は少ないであろう。純粋にゲームをやりたいというのであれば、それでも何の不足もないはずなのにである。
(このことは実はゲームだけではなく、純粋な眩惑の快楽をもたらす娯楽についても同じである。例えば、スカイダイビングなどであるが、これらを娯楽として繰り返し行う人間はやはりほんの少数である。通常は、この眩惑を味わう行為を、仲間内でのコミュニケーションを促進するためのイベントとして捉えて享受するのではないだろうか。)

つまり、直接的に他人とのかかわりのないコンピューターゲームに熱中できる人間というのは、本来それほど多くない。
しかし現在、技術が進歩してコンピューターゲームを製作するのに必要なコストが飛躍的に増大し、もはやそのような少数の人間だけを相手にした商品作りは不可能になっている。 もっと広い客層を獲得しなければ存在自体できなくなっているのだ。

V.蒸発するゲーム

純粋にゲームというものを楽しむ人間以外の層を取りこむためには、純粋なゲームとしての性質以外の、その人たちの人生に肯定をもたらすような要素を組み込む、あるいはそういう要素にゲーム性を組み込むということが必要になってくる。それは例えば、恋愛の代替品だったり、現実の物の所有感とか操作感の代替品だったり、おしゃれの代替品だったり、カッコイイ生き方を表現できるシーンを生成するツールだったりする。

かつて確かに存在した、純粋なコンピューターゲーム(パックマンとかそうでしょう)は、もはやノスタルジーを味わうツールの役割として以外、その存在を許されず、その代わりに、それら蒸発したゲームが培ってきたルールの一部が文法となり、別の物と結合して、“ゲームのような何者か”として世界に拡散して行く。

どうもそういうことになりそうだ。


ちょっと話が極端ですが、やはりそう思います。
僕らが子供の頃に親しみ、こんなのを作ってみたいと思ってゲーム作りの仕事についた、その動機付けになったようなゲームはもうかなり絶滅に近い。
任天堂が唯一がんばっているところでしょうか。
で、その代わりに、コミュニケーションツールとか、パフォーマンスツールとか、シミュレーターとか、実用品などにゲーム遺伝子が受け継がれて世の中に出回るようになりました。
ポストペットなんていうのも、その一つでしょう。
僕は、ゲームが蒸発してしまったことは少し寂しいんですが、でもこの傾向は悪くないと思っています。その方が、人の生活に直接的につながって行けると思うからです。
今後、世の中のあらゆるものにコンピューターが内蔵され、それらが連結されるようになると、ますますこの“ゲームのような何者か”は重要と言うか、面白いことになって行くのではないかと考えています。


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 日本偽現実工学会会報 [The Bulletin of Japanese Fake Reality Engineering Society]
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