Review [TAMAGOCCHI]

【評論】

たまごっち(1996)

1997 高沢秀人


『たまごっち』は1996年10月に株式会社バンダイより発売された、携帯用ミニゲームマシンである。96年の年末あたりから人気が爆発し、今(1997年6月)に至るもほとんど手に入らないという超人気商品となっている。
その内容はというと、ゲーム機の中で仮想のペットを飼い、えさをやったり一緒に遊んだり、下の世話をしたり、わがままを叱ったりしながら、成長させてゆくというものである。飼っている生き物は、成長するにつれて何回か姿が変わり、どのような姿になるかは育て方によって様々に変化するというところが人気の的になった。

さて、このゲームが拡張現実エンタテイメント研究室の製品分析で取り上げられている理由とは何であろうか?
このゲームには時計が内蔵されている。ネーミングも、もとはと言えば「たまご+ウオッチ」から来たものだ。
時計が内蔵されているとはどういうことであろうか。それは、現実の時間経過をまるごとゲーム内に取り入れられるということである。生き物は、ユーザーが画面を見て操作している間だけでなく、リアルタイムに成長していく。さらにこの生き物は、世話をして貰いたいときに、ピーピー音を出し、自らユーザー向けて意志を伝えて来るのである。
これにより、ユーザーの生活そのものが『たまごっち』を中心に再構成されることになる。
さらに、ミニゲームマシンという携帯性と、そのデザインの良さにより、持ち歩くにはうってつけの小物になっている。
これにより、ユーザーの現実の時間と場所を反映した、様々なドラマが繰り広げられることになるのだ。
まさに、現実を呑み込む偽現実。
現実の情報(時間)を内部に取り入れ、それを引っ掻き回す闖入者となっている。ピーピー音を出して呼び出されるところなどは、さながら「異世界からのポケベル」とでも言った雰囲気である。
さらに、この“育て方によって姿が変わる”という仕組みによって、『たまごっち』という偽現実を共有する者の集合というメタ偽現実の中での情報交換が活発になり、隠しキャラクターの存在もあって噂が噂を呼び、都市伝説のようなものまで生まれてしまう。この辺が爆発的ブームという現象そのものであろう。そして実は、「たまごっちという偽現実」は、もともとこっちの方がその本体なのではないだろうか。

しかしそうだとすれば、その本体はすでに消滅してしまっている。少なくとも、攻略本が発売され、生き物の成長パターンの全貌が明らかになってしまった時点で、噂を生む土壌はきれいさっぱり洗い流されてしまったのである。もういくら育て方を工夫しても、新しい展開は何もない。驚きとか、期待感とかいったものを味わうことはできないのである。できることと言えば、攻略本の記事の追体験だけ。今、秋葉原で1万円で売っている『たまごっち』は、すでに『たまごっちの死骸』に過ぎないのだ。

また、バンダイの生産の遅れにつけこんで、さまざまな類似品が作られているが、これらはすべて、たまごっちの本質を見誤った出来の悪い品々である(あたりまえだが)。まず簡単に分かるのが、その造形。工数を減らすため、形や装飾が簡略化されており、本家の『たまごっち』に比べ、本当にただの工業製品という印象を受ける。
しかしそれ以上に、育てる対象になっているのが、ひよこ・あひる・ネコ・恐竜といった現実にある生き物だというところが、一番の大間違いなのだ。
『たまごっち』は“育てる”ということのシミュレーションゲームではあるが、“猫を育てる”とか“ ひよこを育てる”ということのシミュレーションではない。育ての対象を、猫や鳥などの現実の生き物にしてしまうと、リアリティが落ち、リアクションも少ないので感情移入はしづらくなる。
それに対し、『たまごっち』は“たまごっち”というワケの分からない架空の生き物を育ての対象としていることによって、一段上のリアリティを獲得しているのである。現実のものを仮想的に育てるよりも、仮想的なものを仮想的に育てる方が、現実にシミュレーションの対象がない分、リアリティがあるのだ。しかも、育てた生き物が変身してゆく楽しみを味わうにも、現実にある生き物をモデルにするよりは、ワケの分からない架空の生き物の方がいい。
現実にある生き物をモデルにすると、「ああ、○○になったな」というように簡単に理解されてしまうが、「あっ、なんか変なヤツになってる」という方が、その“変なヤツ”に対応する記号がない分、ユーザーの想像や思い入れを受け入れる余地があるのだ(実際には、あまりワケの分からないものにしてもユーザーが思い入れできないので、ほどほど現実の生き物に似ているものが良いのだが)。
同様なことは、バンダイが『たまごっち』の続編として発売を予定している『山で発見! たまごっち』と『海で発見! たまごっち』についても言える。『新種発見! たまごっち』から、現実の生き物をモデルにしたキャラクターが多くなってきたが、キャラクター的には初代『たまごっち』が一番よくできていたのではないだろうか。

しかし、キャラクターが全て公開されている現在では、こういった、「なんかワケ分かんないものを発見した」という感動もすでにない。ゲームとして見れば、キャラクターは公開するべきではなかったのだが、それよりはキャラクターの認知度を高め、キャラクター商品化して儲けようと踏んだのであろう。
ゲームボーイ版『たまごっち』もその系統である。汎用のゲーム機を使えば様々なゲーム性を出せて面白いだろうという考えは間違っているのである。携帯性・実時間性・未知性という『たまごっち』の本質を、どれ一つとして満たしていないのだ。“たまごっち”というキャラクターを売り物にしてゲームを作れば売れるだろうという、いつものバンダイのやり方である。

もうお分かりであろう。
今、『たまごっち』を探しても、実はもうどこにも売っていないのである。
売っているのは、「『たまごっち』の死骸」か、「『たまごっち』のシミュレーションゲーム」か、「『たまごっち』の死骸のおもちゃ」だけなのだ。
本当の『たまごっち』は、当時遊んでいた人の心の中だけに、今もひっそりと生きている。


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 日本偽現実工学会会報 [The Bulletin of Japanese Fake Reality Engineering Society]
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