NoLifeKing
 Review [NoLifeKing]

 【評論】

 ノーライフキング

 いとうせいこう(著) 新潮社 1988年発行

 2001 渡辺浩崇


■ はじめに

『ノーライフキング』が、ずっと心にひっかかっていた。
偽現実の理想的形態のような気がしていたからだ。
なぜかは、よくわからなかった。
わからないから、余計ひっかかっていたのかも知れない。

最近、宮台真司氏の著書『サイファ 覚醒せよ!』を読んで、解読の手がかりになるような概念をみつけた。
“社会”と“世界”という区分、そして、“特異点”という概念である。
これらの概念を手がかりにして、『ノーライフキング』の魅力とその現実的可能性を考えていこうというのがこの論の主旨である。

■ 作品解説

小中学生の塾通いが当たり前となり、また小中学生の間で遊び道具あるいはメディアとしてテレビゲームが一般的となっている時代。子供たちは、ゲームの情報や日常の中に潜む怪奇な噂を伝え合うネットワークをびっしりと張り巡らせていた。
そんな中で、爆発的な人気を得ているゲームソフトが「ライフキング」であった。この「ライフキング」の攻略には裏技が不可欠であり、子供たちは持ち前のネットワークを使ってさまざまな裏技や攻略法を伝え合っていた。
だがあるとき、「ライフキング」には呪いがかかったバージョン「ノーライフキング」が存在し、それを解かなければゲームをやったことのある子供は全て死んでしまうという噂が流れた。
そして、その噂の広まりと期を同じくして、主人公の通う小学校で、校長が「ライフキング」の中の敵キャラクターと同じ死に方をしたのである。
噂は現実のものとなった。
子供たちは「ノーライフキング」の世界に取り込まれた。「ライフキング」の世界のシステムで現実を解釈し、「ライフキング」の世界の現象から現実の未来を予測した。「ライフキング」を軸にして様々な噂が生み出され、また、多くの噂が「ノーライフキング」の中に取り込まれていった。
子供たち自身は、どこからともなく流れて来る噂や現実の出来事を「ノーライフキング」という大きな物語の枠組みの中で捉え、その呪いを解く方法を見つけようと懸命に戦う。
だが大人は社会が混乱するのを防ぐために、「ゲームが子供の現実認識を乱している」として、子供からゲームを取り上げるという強行手段に出た。
しかし子供たちはその事態さえも「ノーライフキング」の文脈の中で捉える。“悪の王の呪いで世界の知性を司るネットワーク網が脅かされる”という筋書きは、ゲームのストーリー設定そのものだったからである。悪化していく状況の中、子供たちは「ノーライフキング」の呪いを解く方法を見つけようと、さらに深く「ノーライフキング」の迷宮に没入していく。
そしてその昏迷が最高潮に達したそのとき、子供たちは「ノーライフキング」の姿を見た。それは“ネットワークそのものの姿”だった。
という筋書きである。

■ 考察

『ノーライフキング』の魅力は、なんといっても、子供たちの生き生きとした姿にある。
こう言うと、反論があるかもしれない。
あの作品に登場する子供たちは、ぜんぜん楽しそうではないではないか。一体どこが、生き生きとしているのか?と。
確かに、どう見ても子供たちは楽しそうではない。が、なにか大きな使命に向かっているという、言いようのない充実感・緊迫感を持って生きることができているように見える。
その源泉となっているものがゲームであるところがこの作品の特徴であり、それならば、この“大きな使命に向かっているという、言いようのない充実感”を作り出すゲームは本当に実現可能なものであるのか?という興味がわく。私が一番心をひかれていた点はそこである。

それを考える上でのキーワードが“世界”という概念だ。

前述の宮台真司氏の著書によると、社会学では“社会=人がコミュニケートできるものの総体”、“世界=ありとあらゆるものの総体”と定義されているという。
社会=世界ではない。
私流に言うと、社会は人工的に作られた任意のルールなのだ。
だから社会は息苦しい。
子供ならば、なおさらだろう。
この作品の舞台になっているのは、学校的な価値基準が社会全体を覆っていた時代の日本である。
物質的には豊かで、何不自由ない生活。
それゆえに、リアリティのある上昇志向も抱きにくい。そんな中での全員強制参加の偏差値競争。
いつまでも続きそうな、なんにも変わらなさそうな、人の手にはおえないところで永久に同じように動きつづける社会。
そんな“社会”の息苦しさから逃れようとして、人は社会の外部(つまり“世界”)とのつながりを求める。
そうして作り出されたのが、この作品の真の主人公ともいえる“噂”である。

噂は“社会”の外側に何かを期待する心が生み出した、“世界”レベルの物語である。
これらの噂は“死”にまつわるものばかりだった。
それはなぜか?
近代社会は“死”を社会の外側に隔離し、日常からは見えないようにした。
だが、人は必ず死ぬ。社会のルールに沿っていようといまいと。
死は社会の外側(つまり“世界”)から、否応なく訪れるものだと言える。
それゆえ、“死”は社会の外側の“世界”とのつながりを、人に強く意識させる力を持っている。
“社会”の外側を望む集団的無意識は、「“死”の物語を通じての“世界”との接続感によって生きる」という生き方を作り出した。
作品中に出てくるキーワードで言うところの「死にながら生きるライフスタイルの確立」であろう。
ここでは噂の総体が“世界”そのものになっている。

物語は以下のように進行する。
まず、「ライフキング」という人気のテレビゲームがある。
このゲーム中に、“ファッツ”という敵キャラクターが出てくる。
このキャラクターは「ディス・コン・ゲーム ハ モンダイダ」という言葉を発して攻撃を開始し、これを倒すと「ライフキングヨ。タタカイ ハ ハジマッタ。オマエ ガ シヌマデ ソレハ オワラナイダロウ」という言葉を残して消滅する。
つまり、物語の開始を告げるキャラクターなのである。
次に、この「ライフキング」というゲームには、呪いがかかったバージョン「ノーライフキング」が存在するという噂が広まる。その呪いとは、「ノーライフキング」を解かなければ、ゲームをやったことのある子供たち全員とその家族全員が死ぬというものだった。
この時点では、この噂も数ある噂の中の一つに過ぎず、実際そのソフトの存在も不明確で、物語として弱いものであった。
しかしある朝、主人公が通う小学校の校長が、朝礼での演説中に「問題はディス・コン・ゲームだ!」という言葉を残して死亡する。脳溢血であった。子供たちはこれを、「ノーライフキング」の呪いで“ファッツ”と同じ死に方をしたのだと解釈した。
これにより、数ある噂の一つに過ぎなかった「ノーライフキング」というゲームが、この世界を舞台にして、実際に動いているということが認識され、そのことが噂ネットワークを通じて全国に流通する。
この事件以後、この強い物語に他のあらゆる噂が吸引されていく。噂の自己組織化のようなことが起こり、噂の総体が即「ノーライフキング」を指し示すようになる。

これは、次のような帰結を生み出している。
噂の総体=“世界”。
噂の総体=「ノーライフキング」というゲーム。
「ノーライフキング」というゲーム=“世界”。

つまりここでは“ゲーム”が“世界”にすり変わっているのである。
では“ゲーム”が“世界”にすり変わったその原動力とは何か?
噂の力は土台に過ぎない。
原動力は“主人公の通う小学校の校長が、ゲームの敵キャラクターと同じ死に方をした”という事件の力である。

ここで、この“校長の死”がもたらした効果を考えるために、社会学の話を少し混ぜる。
社会学は、あらゆることを、社会を構成する個々の要素のつながりに還元して分析する学問であるが、その社会の発生を説明するには“社会の外側からの超越的な力”の存在を必要とするという。
それを社会学では“サイファ”と呼ぶらしい。宮台氏の著作では“特異点”とも呼んでいた。
数学でいうところの、公理にあたるものであろう。
この作品で、“校長の死”はまさに、これにあたるものだと言える。
小学校の校長は、“ゲーム”と“噂”と“世界”のつながりのあらゆる矛盾を内包したまま死んだ。
それらの矛盾を、“世界”の外側に持っていってしまったのである。
あとには、“世界”と“ゲーム”との強固なつながりだけが残る。
残った者は、“世界”そのものとなった“ゲーム”を延々とプレイしつづける。
その“ゲーム”の外側に出ることを目指して。
これは、宗教の発生と同じ構造なのではないか?

やはり究極のゲームというのは、宗教なのだろうか?

ここまで考え、これを意図して作ることは、不可能だなと思った。
 
※この文中では、以下のように表記を区別した。
 『ノーライフキング』:『ノーライフキング』という小説自体
 「ライフキング」  :作品内で、大流行しているという設定のゲームソフトの名前
 「ノーライフキング」:「ライフキング」に呪いがかかったバージョンの名前。及び、
            「ライフキング」をめぐる呪い噂の総体の呼び名(作品中でも同じ使い方をしている)
※【ディス・コン】作品中のテレビゲーム機の略称。「ファミコン」みたいなもの。


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 日本偽現実工学会会報 [The Bulletin of Japanese Fake Reality Engineering Society]
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