Review [JINROH] |
【評論】
『人狼』(2000)と『犬狼伝説』(1999)
2000 矢田部正彰
『人狼』とはどんな映画か。一言で言うと“アンチ恋愛映画”である。
そして、その出来映えを一言で言うと、“ちょっと足りないものがある”となる。
このような結論が導かれる理由とは何だろうか?
まず、『人狼』の原作となった『犬狼伝説』というマンガは、男女関係がまったく描かれず、なおかつ女性キャラが出てこないことで有名である。同時に、中年のオヤジばかり出てくることでも有名なマンガだ。
他にも、男女関係が少しも描かれないマンガはあるが、女性の登場人物だけは、作品内にエロス的イメージをふりまくために登場させたりしている。士郎正宗のマンガなどはその典型であろう。
『犬狼伝説』には、そういう要素がほぼ一切なく、いさぎよい。
今の世の中は、恋愛至上主義社会であると言える。
恋愛ができなければ、自分をポジティブに捉えづらいような価値観が蔓延している。
世に出回っているさまざまな大衆娯楽、音楽・テレビ・マンガ・映画・雑誌・小説などありとあらゆるものが、それを煽る方向に機能している。
この様相に疎外感を感じている人間は、実は多いはずである。
このような状況の中で、『犬狼伝説』は孤独というものを、俗っぽいイメージにせずに、それなりにカッコよく表現している稀有なマンガなのだ。
しかし、その『犬狼伝説』を原作とした映画『人狼』には、ヒロインが出てくる。
それはなぜか。監督からの脚本家への要望であったらしい。
アニメーション映画を作るには、当然だが、人が絵を何万枚も描かなければならない。
スタッフは、ほどんど男性。
とくれば、製作が始まってから数年間、男ばかり描くというのは、スタッフの士気にかかわる。
だから女性を出してくれということであったらしい。
当然、映画としても、広く一般大衆にアピールするには、ヒロインの一人もいないとツライであろう。
だから『人狼』にはヒロインが出てくる。
だが、これは本来おかしいことなのだ。
『犬狼伝説』というマンガのテーマは、巻末で原作者が吐露しているように“犬主義”である。“犬のようにしか生きられなかった男達の話”である。
では“犬主義”とは何か?
この“犬”という言葉は、『人狼』ではあまり使われず、代わりに“獣”という言葉になっている。
“獣”という比喩は、よく“本能”しかも“闘争本能”みたいなカッコ良いイメージを抱かれがちだが、ここで使われている“獣”という比喩はそういう意味ではない。
単に“人間社会からつまはじきになっているヤツ”という意味である。ここを誤解してはいけない。
映画のパンフレットに外国人の評論が載せられているが、どうもここを勘違いしているように見受けられた。
“犬”のイメージにはもう一つの側面がある。
これは、例えば警察のことを“国家の犬”と言ったりするようなイメージとほぼ重なる。
同じ『犬狼伝説』を下敷きにして制作された実写映画『ケルベロス』の中の登場人物のセリフが、もっともそれをよく表している。
回想シーンで、主人公の上官が主人公に向かって語るセリフだ。
「お前、命令されるのは好きか?
オレは好きだ。
自分が忠実であるべきもの…国家とか、思想とか…
何が自分にふさわしいのか…
オレたちにできるのは、それを選ぶことだけなのかも知れないな」
つまり、“自分の信じる崇高なるものとの一体感によって生きる者”というイメージである。
崇高なるものとは何なのか? その内容はどうでもいい。
そのために生きるということだけが重要なのだ。
この二つのイメージを総合して考えると、「“犬主義”とは、人間社会を捨て(あるいは人間社会から捨てられ)た者が、自分の信じる崇高なるもののために生きる生き方」という意味になる。
こんなテーマと、恋愛は、ふつう結びつかない。
しかし『人狼』は、“哀しい恋”風のイメージがポスターにもキャッチコピーにもついている。
果たしてどうなっているのか? と私は疑問に思った。
案の定、映画を見始めると、どうも不自然な点が目立った。
警察官である主人公は、映画の始めで、反政府活動家で爆弾を運ぶ任務を遂行中の女の子を追跡して追い詰めるが、女の子はそこで、持っていた爆弾を爆発させて自決を図る。
その後のシーン。
主人公が、爆死した女の子の墓参りに行くと、そこで、爆死した女の子の姉という女の子(ヒロイン)と出会うのである。
ここまではいい。
しかし、次のシーンでは、二人で川べりを歩いている。
しかも、そのヒロインが自分の身の上話などをしている。
これ、おかしくないか?
墓の前でばったり出会うのはいいとしても、一緒に帰るという流れに、どうしたらなるのか。
主人公の性格設定は、朴訥で無口。友人もほとんどいないような、孤独な人間ということになっている。
こんなヤツが自分から誘うことはないし、誘っても相手にされないだろう。
設定上も、自分の妹を爆死に追い込んだ警察官である。
しかし、楽しそうに川べリを歩いている。
ヒロインの女の子の表情も、まるで作画レベルの高さを誇示するかのように、不自然なくらい自然である。
ふつう、その日会ったヤツに、こんな表情みせないだろうというような。
まあここまでは、“ヒロインが、妹の死を受け入れるために、自分の妹を追い詰めたが発砲はしなかったという警察官と話をしてみたくて自分から誘った”という線で解釈可能ではあるので、100歩譲ってよしとしよう。
で、その後のシーン。
いきなり、公園でデートしている。
語り合っているという感じではなく、イチャイチャ度が高い。
一体、いつ、連絡先を聞き出したのか?
こんなヤツ(主人公)に、連絡先を聞き出せるような社交スキルがあるのか? 否。断じて、ない。
よって、“墓参りの帰りに話をして、主人公に魅力を感じたヒロインが、自分から主人公の連絡先を聞き出し、デートにも誘った”ということになる。
これはさすがに、ただ事ではなく、おかしいだろう。
私は思わず「この映画って…もしかして、軍事政治オタク向け『BOYS BE』なのか?」と訝ってしまった。
しかし、話が進むにつれ、この不自然な話の展開にも、実は物語上必然性があることが分かった。
主人公もそれをわかっていて、あえて付き合っていたらしいということも判明。
脚本家(『犬狼伝説』の原作者と同一人物)は、監督からの課題をこなしつつ、物語の展開にダイナミックさを出し、なおかつ作品のテーマを一貫させることに成功しているのであった。
私は、自分の目の付け所のあまりのシャープさに、少し情けなくなった。
映画は、紆余曲折の末、主人公は結局、最後にヒロインを殺してしまうことになる。
“男女の情緒的つながり”を、男が元々持っていた“崇高なるものとのつながり”が、踏み潰していく様が描かれているということになるだろう。
主人公が、自分で構築したわけではない関係性・突然降って湧いたような関係性を優先させるようなことがあっては、ただのバカになってしまい、作品が成り立たなくなる。
『BOYS BE』にしないためには、原作の持つテーマを成り立たせるためには、当然それしかない。
逆に、そうでなければ、原作のテーマを無視しても良いのであれば、主人公は少し情けなさ過ぎて、この場合もまた作品として成り立たない。
ヒロイン「このままだと二人とも破滅する。私と一緒に逃げて!」
主人公 「いや〜オレ、仕事あるから無理だよ」
というようなやりとりが、劇中に堂々と出てくるのだから。
しかし、それならば、主人公が持っていた“崇高なるものとの一体感”とは何なのか、それが描かれているべきではなかっただろうか。
脚本段階では盛り込まれていたという、“博物館での犬の話”というのは、それだったのではないかと思う。
※『BOYS BE』
週間少年マガジンに連載されているラブコメ漫画。
“消極的でダメな男の主人公が、ひょんなことからカワイイ女の子と知り合いになり、勇気を出して告白したら成功しました”というような話が毎回読み切りで掲載されている。
読者の求める幻想がダイレクトに漫画化された、その“ありそうもなさ”がポイント。
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