Review [DOKODEMO ISSYO]

 【評論】

 どこでもいっしょ(1999)

 2003 高沢秀人


『どこでもいっしょ』は1999年7月に株式会社ソニー・コンピュータエンタテインメントから発売された、プレイステーション用ゲームソフトである。このゲームで遊ぶには、ポケットステーションが必須であった。

このソフトの特色は、言葉遊びをゲームの中心要素として本格的に扱っていた点、それと、ポケットステーション(携帯ゲーム機)とプレイステーション(据え置き型ゲーム機)を連動させて、1日まるごとをゲームの遊びのサイクルに仕立てていた点にあった。

ゲームを始めるとまず、5人のキャラクターの中から、どのキャラクターと友達になってゲームを進めるかを選ぶ。
キャラクターを選んだら、ポケットステーションをプレイステーションに差し、データとプログラムをポケットステーションにダウンロードする。すると、そのキャラクターがポケットステーションの小さな画面に登場する。
このキャラクター、普段はいろいろな待ち受けアニメをしているのだが、プレイヤーがボタンを押して働きかけることで言葉遊びをすることができたのである。


□特色1〜言葉遊び〜
まず、自分が育てているキャラクターに言葉を教えることができた。
好きな言葉を入力し、その言葉の属性を選択肢で選ぶ。属性とは、例えば「食べる物」とか「あいさつ」とか「すること」とか「人の名前」とかそういう分類のことだ。さらに、そういった常識的な分類に加えて、言葉を教えたときに「それって胸キュン?」とか「それってこわい?」といったような、そのキャラクター独自の価値観に沿った質問をしてくるので、それにも答える。このようにして、「辞書データ」が蓄積されていく。

次に、ボタンを1回押すと、1回小話をしてくれるようになっていた。
小話は、あらかじめ用意されている数十個の話のパターンの中から毎回一つがランダムに選ばれて表示されるようになっていた。
そして、ここがポイントなのだが、そのたくさん用意されている小話の途中の言葉が1箇所だけ、自分が教えた言葉に入れ替わるようになっていたのである。ここが遊びになっていた。基本的には、こちらが入力した属性に沿った使われ方をしているのだが、なんとなくヘンな使われ方をするようになっており、このズレが笑いを生むようになっていた。

ただ、この「作為的に笑わせようとしている」点に敏感に反応する人もいた。確かに、人工無能の会話が面白いのは、無能本人や作者はまじめに会話を成立させようとしているにもかかわらず、普通の基準で考えるとそれがどうにもおかしい…という落差があるからなのだが、このゲームではそれがかなり作為的に仕掛けてあったからだ。
しかしこの点は通常、キャラクターの個性という受け止められ方によって軽く受け流してもらえるようになっていたと言える。

□特色2〜遊びのサイクル〜
まず、ふだんはポケットステーションを持ち歩き、好きな時間にこまめに言葉を教えたり話をしてもらったりして遊ぶ。言葉を教えるのには1回1、2分程度かかるが、小話は1回5秒程度で読めるようになっていた。
そして夜、家に帰ったら、ポケットステーションをプレイステーションのメモリーカードスロットに差し、『どこでもいっしょ』のソフトを立ち上げる。
すると、そのキャラクターがその日の出来事をつづった日記(写真つき)を見ることができた。日記の内容は、その日にどれだけそのキャラクターに構ってあげたかで変化するようになっていた。例えば、ほどんど話もせず、言葉も教えない状態だったときの日記は「あまり遊んでもらえず、さびしい…」というような内容になっていたりする。
ここでセーブをすると、その日記データがメモリーに記録され、なおかつ“小話のパターンの入れ替え”が行われるようになっていた。

この連携は見事だった。
基本的には持ち歩いて遊んでもらう。家に帰ってそれをプレイステーションに差して立ち上げると、その日遊んだ結果が反映された日記を見ることができる。そして、日記データをセーブすることによって、小話の総入れ替えが行われる。で、その話を聞きたいためにまたポケットステーションで遊ぶ。
というプレイサイクルが1日単位できれいに成立していたのだ。それでいて、プレイヤー側にこのスタイルを無理して受け入れてもらっている部分は一切なかった。ごく自然に、どんな人の生活の中にも溶け込めるような内容になっていたのだ。
「携帯機と据え置き機を連携させた新しい遊びを」というコンセプトは、現在、任天堂がゲームキューブとゲームボーイアドバンスで実現しようと躍起になって様々なパターンを試みているが、ここまでうまく機能しているものはない。


総括的に言って、このソフトは非常によくできていた。
人工無能的な言葉遊びを、キャラクターデザインの力も借りてうまく商品としての形に仕上げ、なおかつプレイステーションとポケットステーションを連携させて、生活の中にすっぽり納まるような新しいプレイスタイルを作り出していた。
この2つを成功させた功績は何度繰り返しても足りないくらいである。
何も言うことはない。
というより、この一作目の完成度が高すぎたせいで、その後に出た続編や姉妹編はどれもいまいちパッとしないものになってしまっている。製作者側も、なかなかこの1作目を自分たちで超えられない状態だったりするのだ。

このような、新しくて手軽な遊びで、なおかつ人の生活の中に溶け込んでいける新しいプレイスタイルを作るということは、これからのゲーム作りにとって非常に重要な課題である。


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 日本偽現実工学会会報 [The Bulletin of Japanese Fake Reality Engineering Society]
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