人はなぜ裏技を求めるのか

人はなぜ裏技を求めるのか。
まず前提として、ここでは「自力では最後の面まで見られないので無敵コマンドが必要」といった実用的動機は考察するに及ばないので考慮外としよう。
では、人はなぜゲームに裏技を求めるのだろうか?
この問題を考えはじめたとき、まず真っ先に思い付いたのが「システム破綻鑑賞説」である。

今から十数年ほど前、ファミコンブームが全盛のころ、ゲーム好きの少年たちの感心を集めていたのは「裏技」であった。各ファミコン雑誌は競って裏技を掲載し、彼らの要求に答えようとしていた。
いわゆる「裏技ブーム」である。
「裏技」は、なぜあんなにも少年たちの感心を集めたのであろうか?
おそらくこういうことだ。
精巧に作り上げられたシステムが破綻する姿を見るのが単純に楽しかったのである。
巧妙に練り上げられ、コンピューターによって完璧に統制がとれていると思われた世界のシステムに亀裂が入り、そこに異界が顔を覗かせる瞬間。今までそのシステムにのっとって行っていた競争行為が全くの無意味となり、馬鹿馬鹿しくなってしまう瞬間に、新鮮な解放感を感じることができたからである。そして、期待された様式からの不意の逸脱は、笑いにもつながる。
だから、より巧妙に作られたゲームの裏技ほど、そしてより決定的な崩壊をもたらす技ほど注目を集めた。
学園紛争がとっくの昔に終わりを告げ、しらけムードの粉飾の時代が終わりにさしかかり、校内暴力が収束に向かい、冷戦が終結に向かい、いじめの問題が表面化してきた時期であった。
ちょうど同じ頃、奇妙な噂が日本全土を駆け巡った。
ドラエもんののび太が実在し植物人間だという話。サザエさんの最終回があるという話。自殺したアイドル岡田有希子の霊がテレビに現れたという話。呪いがかけられたCMの話など、枚挙に暇がない。高橋名人が逮捕されたという噂もあった。
管理社会が強固なものとなっていく一方、カタストロフは来ないと感じた子供たちは、自らシステムのほころびを見つけ、異界を見出そうとしていたのかも知れない。

だが、この説はどうもしっくり来ない。確かに、こういう側面はありうる。だが、どうも感傷的過ぎるように思えてならない。もっと整然とした理屈付けはできないだろうか?

そもそもゲームとは、現実のルールから脱出するために作られた架空のルールである。
人はルールの中にいると息苦しくなってくる。そのためにそのルールの外部に別のルールを求める。
それが現実に対するゲームの位置づけだが、一方、ゲームもひとつのルールである。もちろん、現実のルールとは違い、過度の過酷さは要求されないし、快感を得るために最適化されたルールであるし、第一やめたければすぐにやめられるので、息苦しさというものはそう感じない。ただ、そういう居心地の良い空間であるだけに、ついダラダラと続けてしまう。しかし、所詮はプログラムの範囲内の世界なので、ある程度極めてしまえば未知性というものはなくなり、停滞感が生じる。しかし、そこに正体不明の怪現象が起こればどうか。それは、停滞したゲームの世界に新たな展開を予感させるものになりうるのではないか。ちょうど、現実世界における心霊現象やUFOのように、まだ未知なるものがあることを幻視させることができるからである。

ようやく見えてきた。
人はなぜゲームに裏技を求めるのだろうか?
ゲームにすら外部が欲しいからだったのだ。システムの破綻が楽しいのではなく、システムに外部があることによって豊饒な世界が生じるから。想像力の飛躍が可能だから。同じことしか起こらない世界では、思考は停滞し、想像力はしぼんで無味乾燥なものとなってしまうからだ。
中沢新一が小論「ゲームフリークはバグと戯れる」の中で述べていた、
“子供たちはビデオゲームが与える視覚情報をつうじて、いっさいバグが存在しなかったとしたら、コンピュータープログラムはにっちもさっちもいかなくなってしまうというゲーデル問題につながりを持つような認識や、この宇宙にはいたるところ、無限につながるブラック・ホールの入口が散布されているというノマド科学的な認識を身につけ始めようとしている。”
とはそういうことだったのだ。
すると、この会報で発表されているような「GPSなど現実の情報を取り入れる」ということと、「人工生命や遺伝的アルゴリズムや人工知能をゲームに取り入れる」ということは、ゲームに外部(後者の場合、内部に開かれた外部だが)を盛り込むという意味において同じことだったのだと考えられる。


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