カバラと裏技

1995年に登場し、爆発的ブームを引き起こした「プリント倶楽部」。その「プリクラ」には“隠し”の要素が入っていた。そして「たまごっち」は、どんな生き物に成長するか分からないというワクワク感で人気を集めた。
どちらもゲームのコア層からはかけ離れたところで人気を博した商品だが、作ったのはゲームやおもちゃのメーカーである。
コンピューターゲームが掘り起こし、温めてきた遊びの要素を、しっかりと盛り込んであったのだ。

“隠しキャラクター”が初めてゲームに登場したのは「ゼビウス」だとされる。
実際には、特定の条件でのみ現れるキャラクターはそれ以前にも存在したが、あれだけ洗練された形で隠しキャラクターを取り入れたのは、確かにゼビウスが初めてだろう。
マップ上のある特定の位置に爆弾を落とすと出現する、通常では登場しないキャラクター。それらは、出現させると高得点を得ることができたり、プレイヤーの残機が増えたりするというボーナスキャラクターであった。この仕掛けにより、ゲームに“探す楽しみ”を盛り込むことができたのである。
続く「ドルアーガの塔」ではさらに、この仕掛けがゲームの中核に据えられた。主人公は、さまざまなモンスターの徘徊する60階建ての塔を探検し、最上階を目指すのだが、各階には特殊な操作や条件を満たすことで出現する宝物が隠されており、それらを見つけながらでないと最上階にたどり着くことができないというものであった。
隠された宝を探し出しながら最上階を目指すというシステムに、マニアたちは熱狂した(その頃ゲームをやるのはマニアだけだった)。
この「ドルアーガの塔」の謎(宝を出すための条件)の内容自体は、ゲームの物語にも関係がなく、ゲーム中にヒントが出て来るわけでもなく、必然性のない恣意的なものである。今そういうものが出てきてもまったく受け入れられないことは確実であろう。
しかし、ゲームを取り巻く当時の状況は現在とは違っていた。当時はマニアが作ってマニアが遊ぶ、玄人が作って玄人が遊ぶという状況でゲームの生産と消費が行われていたし、1年に千本以上のゲームが発売される現在のように商品サイクルも短くなく、マニアが1つのゲームに愛着を感じて長く遊ぶ余裕があった。好みの細分化も進んでいなかった。さらに、現在のようにコンピューターが日常的なものではなかった当時は、ゲームに神秘性のようなものがあった。ゲームは単なるコンピューターソフトの一種というより“内側にひとつの世界を抱え込んだ魔法の箱”のような感覚があった。また、ゲームをやる者の世界=ひとつの物語を共有する者たちの世界の中で、誰が一番早く解くかというメタゲーム的な世界が構築されていた。作品内部での必然性はあまり求められてはいなかったのである。

この傾向の“隠し”はファミコンブームのときに最盛期を迎え、その後は姿を消した。
現在では変わってゲームを長く遊ばせるため、クリアの動機づけを強めるための“隠し”が主流となっている。
「弟切草」や「かまいたちの夜」の隠しシナリオ。FFZのレアアイテム。最近ではFFタクティクスでの隠しキャラクターや隠しゲームなどがそれだ。

隠しキャラクター、隠しステージ、隠しシナリオ、隠し機能…。
コンピューターの持つ“情報を隠す機能”を巧妙に利用した仕掛けである。
すでにそこに存在しているのに、見ることができない、利用することができない情報。
隠された全貌。それは人を引き付けて止まない。
この仕掛けは、本やボードゲームでは実現できないものである。
では、コンピューターが生まれる以前には、これに相当する仕掛けはなかったのであろうか?

似たようなものがあった。
それが「カバラ」。これはゲームではない。宗教的技術のひとつである。
対象はコンピューターゲームではなく、聖書。
聖書とコンピューターゲームには似たところがある。
先ほど、コンピューターゲームに“内側にひとつの世界を抱え込んだ魔法の箱”という表現を使ったが、聖書はまさしく“内側に全世界をまるごと抱え込んだ書物”というふうに捉えられていたからだ。聖書には、字面の意味だけではなく、世界の始まりから終わりまでの全ての情報が形を変えて収められていると考えられていた。
その隠された意味を解読しようとする試みが「カバラ」であった。
解読には、縦読み、文字の入れ替え、単語の数値化による照応関係の発見といった方法がとられた。
中世の修道院で、聖書の暗号を解こうと文字の入れ替え・読み替えに没頭する修道士たち。隠された全貌をこの目で見たい、見ることができるかも知れないという高揚感。彼らの心の内に湧き起こっていた感覚は、例えば我々が「かまいたちの夜」で隠しシナリオを発見しようと躍起になっているときの感覚と似ていたのではないだろうか。しかも、ゲームの場合は隠しを発見したとしても実際どうということはない、無償の困難の愛好だと言えるが、カバラでは、発見した神秘はそれはそのまま世界の真実を告げている(と思われていた)のだ。どれほど高揚したことだろうか。
この、聖書という内側への探求がそのまま外界への真実につながるという感覚がなんとも魅力的に感じる。

このことは、隠された全貌を発見する楽しみが世俗へ降りてきた現在でも、いまだに聖書の秘密を(それも昔ながらの方法で)探求している人がおり、しかもそういう本がベストセラーになってしまうという状況からも、あながち特殊な感じ方ではないのではないだろうか。


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